1382ページ目 秋葉原連続刺傷事件 

まさか再び秋葉原で連続刺傷事件が発生するとは思いませんでした。

1月3日の午後11時頃の山手線内で20代の女性が刃物を振り回し乗客ら4名が怪我をしたとのことです(朝日新聞記事「JR秋葉原駅、山手線車内で切られ4人けが 殺人未遂容疑で女を逮捕」)。

死者は出なかったものの1月1日の大地震、1月2日の飛行機衝突事故、そして1月3日に電車内の無差別傷害事件とお正月の三が日全部の日で社会を震撼させる出来事が発生しており本当の本当に今年は大丈夫か?と思えてきます。

 

それにしても秋葉原での連続刺傷事件というと16年前の事件を思い出します。

2008年に当時20代の非正規雇用だった加藤氏がトラックで通行人をはね、降りてからダガーナイフで次々に通行人を切りつけ死者7名負傷者10名を出した大事件が起きたものです。

既に加藤氏の死刑は執行され事件も16年が経過しました。

今回無差別刺傷事件を起こした20代の女性が16年前の秋葉原連続殺傷事件を知っていてそれを模倣したかどうかは不明、というか年齢的にそこまで記憶に残っているとも思えないのですけど犯人の女性には殺意があって使用した凶器とは別にもう一本刃物を所持していたようです。

絶対コロスという強い殺意が伝わってくるようです。

 

三が日も終わり今日から夕刊の配達が再開しましたけど今日の日経夕刊記事「プロムナード 電車の中で社会と出会う」はちょっと思うところがありました。

主な内容は「筆者の阿部公彦が混み合っている朝の電車に乗っている時にゲロした子供とそのゲロを処理する母親を見かけた。子供は盛大にゲロして電車内の空気が変わったが周囲の乗客がゲロをする子供の世話をして母親はゲロを片付け車内は片付いた。だが酔っ払いがゲロして混んでいるのに誰も座らない終電とは大違いだけどこれはこれでみんな疲れてるから仕方ない。というかたまたま朝の電車の子供のゲロは首尾よく片付いたがそれでよかったのか?親子を助けた人も別の場所でも同じように適切な対応ができるか?もしその人を敵に回した場合には助けられるどころかその人にナイフを振り下ろされるのではないか?普段は親切な人も敵を前にしたら豹変するがそういうことを考えるのはたぶん疲れているからというだけでない。」といったようなお話です。

 

このコラムは昨日の秋葉原連続刺傷事件を受けて書いたのか連載が決まった昨年に書き溜めていたものなのかどうか不明ですがタイムリーに刺さった人もいるかもしれないですね。

秋葉加藤も今回犯人になった20代の女性も普段はいい人だったかもしれないけどあまりにも生活に疲れすぎてプツリと切れてしまう何かがあったんじゃないかと思えてきます。

いやもちろんいくら何でも実際に刃物を振り回して刺傷するのはダメ、ゼッタイ。です。

ただその反面で消費税だとか社会保険料など収入が少ない世帯ほどダメージが大きい負担、2度の秋葉連続刺傷事件の犯人はどちらも20代ですが若い世代にとっても生活を著しく圧迫する負担を押し付ければどうなるか。

「電車の閉じた空間には社会が凝縮される。」とも書いてありますが正にそういうことになるわけです。

今後もジョーカーみたいなヤバい人が電車の中で刃物を振り回したり火を付けたり(たぶん監視カメラを増やしても覚悟を決めてしまった無敵の人を止めるのは無理です)終電の時間帯に限らず皆へとへとに疲れ切ってコラムのように困っている親子を見ても誰も助けようとはしなくなるんじゃないかと思えてきます。

去年も別の場所で述べた通りお小遣いが減れば心遣いだって減るんです。

財布の中身が心の余裕の源泉なわけで貧乏人ばかりになったら金持ち喧嘩せずとは真逆の諍いの絶えない社会になるでしょうね。

筆者の阿部公彦君のような大学の勝ち組教授からすれば消費税も社会保険料もたいしたことないと感じるかもしれない、そんなことは「小さなきっかけ」でしかないと考えるのかもしれませんが中低所得層からすれば「小さなきっかけ」でも何でもなく死活的な大問題なのです。

困っている人が増えれば増えるほど勝ち組にとっても生きづらい社会になっていくと思いますがそれでいいんですかね。

もちろん私は無差別刺傷事件とか巻き添えを食らいたくないしそんな社会はまっぴらごめんですね。

 

…とはいえ上級国民の皆さんがそれを反省するかというとまず間違いなく反省しないでしょうね。

そしてやり過ぎてしっぺ返しで全部失うのも古今東西で繰り返されてきた歴史が示す通りです。

んー?どこかに反乱とか革命を望んでいる人がいて夜な夜な呪いをかけてるって?

さあ?それはないんじゃないですかね。

今日の日経朝刊の連載小説で陸奥宗光が夢の中でさえも西郷隆盛の反乱を煽っている描写がありますけど集合無意識にアクセスできれば誰かを操ることもできるなんて話ですけど言うほど簡単なことじゃないですよ。

誰かというか何かから集合無意識レベルで気を吸収すればその分だけ気の量が増えるとしても問題はその気というか集合無意識とのアクセスを強化することで逆に乗っ取られることもあるわけです。

集合無意識というのはFF7のライフストリーム的な何かでもあるんですけどセフィロスみたいに強靭な精神力がないと廃人になることだってあり得ます。

そういえば同化の法で強い魔物を吸収して人外になったのがロマサガ2七英雄ですけど意識と意識が混ざり合って本来の自分はどこにもいなくなってしまうという可能性もあるのかな。

同化の法よりマイルドな継承法でも何十回も使えば限界という設定でした。

過去の皇帝のスキルを継承するにあたって過去の皇帝たちの闘いの記録が含まれる集合無意識にアクセスでもしたのかな?

実際に技も使えていることも考えると知識だけでなく肉体の潜在能力も引き出しているのかもしれないですね。

んで集合無意識を通じて誰かを操るというのは逆パターンってことになりますかね。

意識と意識を混ざり合わせてターゲットを意のままに動かすとなってくるとつまり気の吸収とは逆、自分の気をターゲットに用いる必要が生じます。

元々のターゲットの意思とは違う動きをさせるわけですからその分だけ気を使う必要があるわけでこれはものすごく疲れますよ。

気を使い過ぎて疲れる、疲れるだけでなく気枯れして自分にダメージが来るかもしれません。

というかそれ以前にターゲットに与えるために莫大な気を用意しないといけないわけでそれがまた難易度が高くなります。

その辺の普通の人を操るだけでもかなり厳しいと思いますが莫大な気を持っている大物だとか不特定多数の人々を操る、西郷隆盛みたいな英雄だとか何百何千の不穏分子を操って反乱を起こさせるような呪術師なんて存在するんですかね。

もしかしたら歴史上いたかもしれないですけど果たしてそんな伝説級の人外は現代にいるのかどうか。

仮にいたとしてもよほどの野心家でもない限り権力闘争だとか命を失いかねないほど面倒なことに巻き込まれたくないので人知れず隠遁しているかもしれないですね。

もっとも操れるような人は操るに値しないし操るに値する人を操るのはまず無理な話なので集合無意識を通じて誰かを操るとか個人的にはやめた方がいいと思いますけどまあ体力的に微妙な陸奥宗光西郷隆盛や屈強な薩摩隼人を操るのは無理ですね。

健全な精神は健全な肉体に宿るなんて言いますが体調が悪い状態では気力だって充実させるのはなかなか厳しいものがありますからね。

 

まあ社会を個人的な呪いでひっくり返せるかというお話に関しては歴史に名を残すような天才呪術師でもない限りまず無理なんじゃないかというお話なのですがこれが集団の呪い、呪いというと物騒なので祈りと言い換えますが集団の祈りだったらどうなるでしょうね?

何千何万人から恨まれた、呪われた、頼むから消滅してくれと祈られたらひとたまりもないんじゃないかと思うんですよね。

天才呪術師を超高性能なスパコンだとすると何千何万人の祈りは分散型ネットワークみたいなものですかね。

18bitセンセーションでもマモル君が大量のPC98をつないで分散型ネットワークとして使用してましたけどスペックが低い旧式のパソコンでも最新式のスパコンをも上回るパフォーマンスを叩き出すわけです。

人間もまた集合無意識で深い所ではつながっていて個々の人々はそれぞれ一つの端末に過ぎなかったりもします。

自覚しているかどうかはともかく基本システムの共有もあったりしますかね。

底の底では全部つながっていたりするのですけど大勢の困窮した人たちによる上級国民が憎いという祈りが集合無意識レベルでシステムというか社会全体に浸透したらどうなるか?

たとえ上級国民が何をしても絶対に回避できない祈りが発動してしまうことだってあるかもしれません。

この世の総てが敵になるのですよ。

なぜルイ16世はバレンヌ逃亡事件で失敗してしまったんでしょうね?

途中で馬が転倒したりするなど偶然のアクシデントがあって予定時刻までに集合場所にたどり着けなかったのでマリーアントワネットの実家からブルボン家を助けにきたオーストリア軍は撤退してしまいました。

なおオーストリア軍の撤退とルイ16世御一行の集合地点到着はほぼ入れ違いだったそうです。

何で大事な時に馬が転倒してしまうだとかアクシデントが続いたのか?もうちょっとだけオーストリア軍はルイ16世御一行を待つことはできなかったのか?ということも考えると不運が重なったとしか言いようがないのですけどそれが大勢の困窮した人々の上級国民許すまじという祈りが原因だったのではないか?と思えてくるのです。

一つ一つのアクシデントは独立していますが実は全部が無意識のうちに仕組まれていたことで全てが祈りのなせる奇跡だったのです。

まあ馬が転倒したのは馬車にモノを詰め込み過ぎたというのもあるんでしょうけど一刻を争うような大事な時に判断を誤ってしまうのも魔が差した、これも困窮した人たちの祈りの結果なのではないかという気がしないでもありません。

そもそも民を見捨てるという為政者として絶対にやってはいけない意思決定をしてしまったこと自体が魔が差したとも言えるかなと。

合理的な意思決定ができなくなる、魔が差すこと自体が一つの呪いというか祈りの結果なわけでターゲットそのものが断頭台に向かって歩いていくように仕向けるということで実に恐ろしいものがあります。

本当の本当に怖いのは西郷隆盛のような英雄でも陸奥宗光のような切れ者でもなくたくさんいるごく普通の一般国民だったりするのです。

完全アウェーの試合で応援席にいるファン全員が敵チームの失敗を望みながら応援をしていたらかなり厳しいものがあります。

野球にせよサッカーにせよ日韓戦でアウェーの韓国での試合とかものすごいプレッシャーです。

そういえば甲子園でも魔物がいていつだったか過度な肩入れ応援であまりにも巨大なプレッシャーに相手方だった八戸学院光星の投手から「全体が敵なんだ」と言うコメントもあったものです。

何でもないどこにでもいるごく普通の人たちだって一つにまとまればとても巨大な力を持つこともあります。

大衆はブタでも何でもありません。

「水を治める者は国を治める」と言いますが「君は船なり、人は水なり。水は能く船を載せ、亦能く船を覆す」とも言います。

一人一人は一粒一粒の小さな水滴に過ぎなくても集まれば船というか為政者をひっくり返すほど恐ろしい存在でもあるのです。

一人一人の人生を追い詰めることで怒りと悲しみを増幅し集合無意識の海で巨大な波を発生させてまでやりたい放題やるのは感心できませんね。

大勢の人々からなけなしのカネを奪い憎しみを集めてごく少数の身内にカネを与える政治から決別しないと大変なことになるでしょうね。

馬鹿は死んでも治らないと言いますがさすがにもう臨界点まで来ていることはよく自覚しないといけないんじゃないかなと思います。