1294ページ目 古文いる?いらない?

学習内容がたくさん増えてきてテスト勉強もなかなか大変ですがもっと減らしたい、時代に合わない学習内容はカットしたらいいんじゃないかといった話も聞かれます。

リストラ候補として古文を挙げる人もいるかもしれません。

英語はグローバル化で使うので増やす、理数系は産業に必要なので増やす、でも古文は覚えても日本の昔の作品が読めるだけなのでいらないよねといった展開になりがちです。

まあたしかに受験勉強が終わったらきれいさっぱり忘れてもそんなに困らなかったりもします。

 

東洋経済記事「古文は役に立たない」と思う人の“大きな誤解” 学生時代に勉強を疎かにしているとどうなる?ヤフーニュースで古典の文法を覚えることで現代日本語もより理解できるようになる、例えば反語表現の使い方とかが知らず知らずのうちに身につくといった効用も取り上げられていますが反語表現?いらんわそんなもん、そもそも伝わらない文法とか使うんじゃねー的な反論が返ってきそうです。

まあ個人的にはわりと反語表現とか作文で使うこともあるんですけど敢えて反語表現にして強調したいとかよほど腹に据えかねて嫌味の一つでも言いたいとかでもない限り反語表現は使わない、使う場合でも反語表現だと気づくように説明は増やすぐらいはしたほうがいいかもしれませんね。

 

「けりをつける」の語源の話も取り上げられていましたがこれは知りませんでした。

けりをつけるの意味は決着をつける、結論を出すという意味ですが足で蹴ってそれをとどめの一撃にする的なイメージで覚えている人もけっこういるかと思います。

勝負の決着をつけるということで格闘技のけりが思い浮かぶわけで由来はともかくイメージはマッチしているので覚えられやすいでしょうね。

ただ本来は古文の語尾につく「けり」、これは古文の助動詞で過去と詠歎を表します。

「花咲けり」は訳すと「花が咲いた」となります。

昔受験予備校(懐かしくなってどうしているか調べてみると秋山敏徳先生はコロナ禍前にお亡くなりになっていたようです…)で「花咲けりけり」がどこかの大学で試験問題に出たけど試験中に受験生が「けりけり」の部分は誤植ではないかと試験監督に申し出て作問者に問い合わせがいったところ作問者が来てわざわざこれは誤植じゃないよといった話を強調して帰って行ったといった話を聞いた覚えがあります。

「花咲けりけり」は「花が咲いたなあ」という「けり」を過去+詠歎両方で使っているという文なのでした。

 

…で?だからなんだおい。そんなしょうもない話を受験勉強が終わった後まで覚えていてどうする?役に立たんだろうが、と思われるのも想像に難くありません。

実際そうですね。

花咲けりけりの話は20年以上前に予備校で聞いて今日まで忘れてましたし今まで何かに書いたり誰に話したこともなかったです。

 

時代的に明治期の文章を読むには古文を読んでおくと多少は違和感が薄くなる、資格試験の受験勉強中で商法とか読むときに幾ばくか役に立ったんですけどもうとっくに商法も現代語になっています。

古典の文法の類は勉強しておけば着実に点数を積み上げられるので不確定要素が大きい現代文より満点を取りやすいといったメリットもありますが文法でそんなにたくさん点数が来ることもありません。

古典ですからどこかの蔵から未発表の名作が掘り出されたとかでもない限り基本的に増えないし話し言葉で使う人もキャラづくりの一環で使う人がいるかどうかといった程度なので古文の文法を覚えても実生活では著しくコスパが悪すぎです。

こんな状態ではもう古文は切ってもいいかもしれませんね。

 

…が、その一方で古典だって文学作品です。小説であり随筆であり単に古いというだけの話で本には違いありません。現代文は論理国語と文学国語に分かれますが文学国語の授業時間を減らすんだったら文学に親しむ時間として古典は大事になってきます。

子どもも大人も忙しい現代で文学作品を読む時間を作る、教養に親しむ時間を作るのであれば古典の時間もあってもよいものです。

そして意外にも古典を読んでいて非常に役に立ったのが大人になってからでした。

何か文章を書く時に古典のセリフや教訓の類を引用すると説得力が増すこともしばしばあります。

伝統文化に権威を感じる人には古典を引用するのも現代文以上の効果があるのかもしれないですね。

次から次へと新しい作品類が現代語で出てきますが何だかんだで昔の人も似たようなことは考えていてとりかへばや物語みたいな男女入れ替えの類の話もありました。

古典が元ネタになっている作品類もあるので原典になる古典を読んでおくと参考になるかもです。

ただ残念なことにこの種の話は受験勉強が終わってからでないとなかなか実感しにくいものがあります。

今になってもっと学習内容が記憶に残りやすい若い頃に勉強しておけばよかった、文法が苦手なら苦手で先に現代語訳を全部読んでおけばよかった、作品数は限られているといっても試験で出題される可能性がある作品に限定すればそれなりに対応はできて点数も文章解釈だったらそれなりに配分されるので人生を通してコスパのよさそうな勉強ができたかなと思いましたが後の祭りです。

昔、気分が乗らないので授業中に内職していたり流し読みだったりした古典の類も再び思い出すためにわざわざまた調べなおすというのもまた面倒で見返さなくてもすっと出てくるなら便利だったんですけどね。

 

英語のように別の試験が就活や昇進で役に立ったりするわけでないとはいえ使いこなせれば役に立たないように見えてものすごく役に立ちます。

まあ役に立つかどうかだけで考えるのもどうなのか、教養とは本来そういうものではないという人もいるかもしれませんがコスパという観点から見てもそこまで悪くないと思うんですけどね。