1109ページ目 差別問題と表現の自由

アガサクリスティの小説の表現内容が改訂されるといったニュース(CNN記事アガサ・クリスティーの探偵小説を改訂、不快な可能性のある表現削除)を目にしました。

主にユダヤ人や黒人関係など差別問題がたびたび話題になる点で「黒人の使用人がにやりと笑った」を削除して「うなづいた」に変更するといった措置が取られるそうです。

アガサクリスティに差別意識があったかどうかは不明ですが不快に思う現代の読者も中にはいるのでしょう。

文章を書く上ではきちんとした配慮が必要になります。

ただ一方で故人の書いた表現物を勝手に改訂してしまってよいものか、「にやりと笑った」と「うなづいた」は全く違います。

またアガサクリスティが存命していた20世紀の時代背景及び差別問題について考えるにあたって敢えてこの種の表現を残しておくのも一つの方法です。

この種の変更をたびたび行うと1000年後には書かれた当時の文章と全く似ても似つかないものが出来上がってしまいそうな気がするのですが日本も日本で他人事ではありません。

例えばひょっこりひょうたん島のサンデー先生が歌っていた「勉強なさい」。

勉強なさい 勉強なさい
大人は子どもに命令するよ 勉強なさい

(博士)えらくなるために お金持ちになるために

(子どもたち)あーあーあーあーそんなの聞き飽きた

(サンデー先生)いいえ賢くなるためよ
男らしい男 女らしい女
人間らしい人間 そうよ人間になるために さあ勉強なさい

といった一節がありますが今だったら「男らしい男 女らしい女」というあたりは問題になるんじゃないかと思います。

この歌は60年代の歌ですが当時としてはかなりのリベラル派の知識人だった井上ひさしですらこの認識ですから昭和の日本の道徳として普通に受け入れられていた認識だったことでしょう。

天下のNHKの放送なのでなおさらです。

60年代に小学生や幼稚園児だった世代は今だと60代70代ですが子供の頃に学んだ道徳というのは中々抜けないもので今でも男は男らしく、女は女らしくと思っていても不思議ではないかもしれません。

今から歌詞ごと変えるのか?といった話も再放送とかリメイクをするならあるかもしれませんが再放送やリメイクをするにあたって改訂せざるを得ない面も出てくるにしてもオリジナルについては再放送なリメイクで使わないにしても残して置き昭和という時代を考える資料にしてはどうかと思います。

それでも全部否定するわけでもなく人間らしさの定義に関しては不明、偉くなりたいと思うのも(傲慢)金持ちになりたい(強欲)と思うのも勉強をサボりたい(怠惰)と思うのも人間の業なわけである意味それもまた人間らしさなのですがサンデー先生からすれば性悪説の立場で人間は元々アホなので賢くなるために勉強が必要だと思っていたのかもしれません。

それにしても井上ひさしだったら今の状況をどういう表現で語るんでしょうね。

もうお亡くなりになってしまいましたが作品類を全部読み込ませてチャットボットに差別問題と表現の自由について語ってと質問してみたいような気もします。